日本における椿文化
椿は、日本に古くから自生する植物であり、その花や種子は観賞用・実用品として、長いあいだ人々の暮らしに関わってきました。
歴史書や詩歌・物語に登場した椿、生活道具や化粧品としての椿、園芸植物として愛でられた椿。
多くの人を魅了し、時代とともに多様な広がりを見せてきました。
椿がどのように暮らしに根づき、現代まで受け継がれてきたのかを、文化史的な視点からたどります。
監修:日本ツバキ協会理事・大島椿椿図書館館長 木全典子氏
縄文時代(紀元前18,000年~紀元前300年頃)
=椿を使った道具=
日本の暮らしの中にある椿。現在分かっているものでは、古くは縄文時代にさかのぼります。福井県の鳥浜貝塚から発掘された「赤色漆塗り櫛」はヤブツバキの板から削り出されています。長さ8.9cm×幅7.8cm×厚み1.0cmの竪櫛で縄文時代前期(約6100年前)の地層から出土しました。福井県立若狭歴史博物館にて常設展示されています。
鳥浜貝塚出土赤色漆塗り櫛(福井県立若狭歴史博物館写真提供)
奈良・平安時代(8~12世紀)
=高級品として扱われた椿油=
奈良・平安時代には、日本書紀、古事記、万葉集の中で文字として“ツバキ”が登場します。椿は常緑の葉をもち、冬から春にかけて鮮やかな紅い花を咲かせることから、強い生命力や普遍性を感じさせ、長寿繁栄・めでたい木とされていました。
また、椿油も海外への高級な贈答品として用いられています。椿油の初記録は「続日本紀」。現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した渤海国からの使者が帰国の際に椿油を所望したと記録されています。律令の施行細則をまとめた法典「延喜式」には、唐への朝貢品リストに「椿油6斗」と記されています。
油の歴史を記した『搾油濫傷*1』には、奈良の海石榴市で椿油が流通していたことが記されています。
「一条院の正暦(一条天皇の年号。990~995年)の頃、大和国椿市は海石榴油の油を鬻(ひざ)ぎし所にて、長谷寺の燈明油も此処より調へ候事は小右記の長谷寺詣の処に見えたり・・・源氏物語には、椿市にて御明の事したしむるよし書きたり・・・」
燈明(とうみょう)とは神仏に供えるともし火のことで、「みあかし」とも呼びます。日本の植物油の普及は仏教伝来によるところが大きいとされ、神仏へ供える献燈火の必要が植物油の需要を拡大し、国内生産はもとより製油の技術導入、発展につながりました。
*1 製油の起源と歴史を説く書物。文化7年(1810)、衢(ちまた)垂兵衛により書かれた。
室町時代(14~16世紀)
=観賞用として愛でられた椿花=
椿の花が観賞用として愛でられるようになるのは室町時代頃からです。室町時代の御所には多くの庭木が寄進されています。また、着物や日用品に椿の意匠が、めでたい吉祥模様として使われました。
「椿文 笈」室町~桃山時代
鎌倉彫資料館蔵
出典:鎌倉彫資料館発行「鎌倉彫の仏具―こめられた想い 受け継がれる形―」2017年、25頁
そして、茶の湯が発展するとともに、椿の花が注目され、園芸品種が増えていきます。椿は冬から春の茶花として重宝され、椿の園芸文化は全国に広まりました。
画像:茶道裏千家専任講師 吉川亜樹氏提供
江戸時代初期(17世紀)
=椿ブーム=
江戸時代に入ると、後水尾天皇や徳川秀忠、家光らに気に入られ、貴族・高僧・大名などの間で椿が大ブームになります。多くの品種が生み出され、コレクションが流行しました。
江戸図屏風左隻の右上には、「御花畠」と椿の絵が描かれています。
「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館蔵
江戸時代後期(18~19世紀)
=海外へ渡る椿=
江戸時代には鎖国政策が敷かれていたことは周知の事実ですが、その中において椿は海外へ紹介されました。日本の植物をヨーロッパに紹介したのは長崎の出島に来た3人の外国人です。
1人目はドイツ人ケンペル(1651-1716)。著書『廻国奇観』にヤブツバキの銅版画を掲載、椿の絵姿をヨーロッパ人に見せました。(植物分類学の父と呼ばれるリンネはこの椿図を見てヤブツバキにCamellia japonicaと学名を付けました。)
2人目は、『日本植物誌』の著者スウェーデン人のツンベリ(1743-1828)です。彼はリンネの弟子でした。ツンベリは日本からヤブツバキを海外へ送っています。送った椿の1本は現在もドイツのピルニッツ庭園で花を咲かせています。
3人目は日本でも知名度の高いシーボルト(1796-1866)。シーボルトも『日本植物誌』を記しており、サザンカとヤブツバキの図版と説明が記されています。
17~18世紀頃にヨーロッパに伝わった椿は、19世紀には大人気の花になりました。ヨーロッパで品種改良が進み、様々な色や形の椿の品種が生み出されると、それらの椿の花をカラーで描いた豪華な図譜が多数発行されました。冬のバラとも呼ばれ、アレクサンドル・デュマの小説『椿姫』が生まれるなど、椿はヨーロッパで流行していきます。
江戸末期(19世紀)
=食用に使われる=
江戸時代になると人々の暮らしも豊かになり、それまで貴重だった油脂が一般に普及し、食用にも使われるようになりました。庶民の生活を支えたのは胡麻や菜種などの大量に安価で安定的に生産できる油脂であり、椿油は希少で高級な油として扱われました。古今要覧稿には「ゆひき熟し食ふに胡麻のあぶらにまさりて其色鮮にして美味なり[訳:(椿油で)揚げて食べるとごま油より優れていて、色が鮮やかで美味である]」など、当時の文献でも紹介されています。
近代(19~20世紀)
=ヘアケアの変遷=
椿油は江戸時代では主に品質の良い髪油として使われましたが、その搾り粕も洗髪料としてヘアケア使用されました。洗髪料にはふのり、うどん粉、たまごの白身、灰汁、火山灰、茶や椿の油粕が用いられ、明治初期には「髪洗い粉」の名で売られていました。大正から昭和初期にかけて、白土・粉石けん・炭酸ソーダなどを配合した髪洗い粉が登場します。
昭和初期、大島椿では椿種子の搾りかすを使用した「艶じまん」という髪洗粉を販売していました。
『大さじ2杯を布袋に入れ、洗面器や洗い桶に入れた熱いお湯で振り出し、出た液と袋で洗う』という使い方で、その後ゆすぎ湯の中に椿油を4~5滴入れ、仕上げゆすぎを行うことで当時の女性は美しい艶髪を目指し、ケアをしていました。
1930年代の広告 大島椿の「艶じまん」
近代~現代
=国内外で受け継がれる椿文化=
明治時代になり西洋化が広まると、日本的な椿は存在感を失ってゆきます。品種が分からなくなったり、消失する危機の中でも古典品種が細々と受け継がれたのは、明治時代に伊藤小右衛門らが江戸期の椿の品種を集めた一覧表のカタログ『椿花集』(1879)を出版したこと、古典品種が新たに植木産地となった埼玉県の安行の植木屋に引き取られ、皆川治助などの尽力で保全されたこと、園芸家の石井勇義が植物学者・牧野富太郎の協力を得て、植物画家・山田壽雄の精密な画によって日本産のツバキとサザンカの図譜を制作した(のちに津山尚編集で『石井勇義 ツバキ・サザンカ』として発刊)ことなど、椿に造詣が深い人々の尽力があったからでした。
椿が再び脚光を浴びるのは、第二次世界大戦後。世界的に椿の園芸が流行し、日本でも再び椿の愛好家が増えていきます。各地で椿愛好会が誕生し、1953年には日本ツバキ協会が設立されました。現在も多くの愛好家が椿を通して交流し、全国各地で椿展や椿まつり、全国椿サミットや国際ツバキ会議が開催されています。
また、椿の文化は現在でも各分野で継承されています。能楽では江戸時代に生まれた椿柄の装束が若い女性を演ずる際に今も受け継がれ、日々のかつらの手入れには椿油を使用。歌舞伎界では、椿油を化粧下地や紅溶き、化粧落としに使う俳優もいらっしゃいます。またツゲ櫛など伝統工芸品の手入れや、木版画・漆を使う作品の制作過程で、材料・道具として椿油が今もなお使用されています。詳しくは、特集ページ「美の仕事人」にて紹介していますので、ぜひご覧ください。